夫の実家に着くと、上の子(小3)と母がいました。母は泣いて喜んでくれましたが、上の子はそっけなく「おかえり」と言って家の中に戻ってしまいました。その態度に違和感を感じつつも、母に「心配かけてごめん。みんなは?」と尋ねると、父・夫・夫の弟は私達を探してくれているとのことでした。実家に上がり床に座ると急に疲労感に襲われました。よく見るとダウンジャンバーも顔も、すすや重油であちこち汚れています。化粧もすっかり取れて髪もぐちゃぐちゃなままひっつめて、酷い有様です。全然気が付きませんでした。テレビ・・・まぁいいや。みんな無事だったんだ、よかった・・・。従業員のみんなは無事だろうか・・・。会社は・・・?
母が用意してくれた食事を食べ、眠気をこらえながら子供達の庭遊びに付き添っていると、じょのぐちを上がってくる車のエンジン音が聞こえました。お昼時間になり夫達が戻って来たようです。「パパ~!」とジャンプして手を振る子供達。夫は慌てて車から降りると下の子を抱きしめて、涙を流して喜びました。
【写真 2/12 7:18撮影 左側が校舎です】
どうやら上の子は小学校の校舎に一晩泊まって、翌日の朝に夫と夫の弟で救助に向かったそうです。仕事がら道路の高さや形状などが頭に入っていたので、浮いたがれきを伝い一番乗りで何とか校舎に入りこみ、長靴にヘルメットと言う風貌も重なり、救助の方に間違われたとのことです。小学校もやはりトイレが溢れ、廊下まで尿で濡れており、備蓄品は体育館で流され水もなかったため、一晩でも不安と悪臭で具合が悪くなる生徒が多かったそうです。実家に上の子を預けた後は、中央公民館に何とか辿り着けないかとあちこち奔走し、徒労していたそうです。空が真っ赤に染まる大規模火災を見てとても助かるとは思えず、私達3人がいない一晩目の夜は眠れなかったそう。「なんて言ってお前の両親に謝ればいいかと考えていた。」と夫が言いました。
父(前社長)は震災当時市役所にいましたが、道路を選びながら車で何とかうまく避難ができ、夫と一緒に道路工事をしていた従業員達も、川沿いだったので土手から津波が見えてぎりぎり走って逃げ切ることができ、もうひとつの現場は津波のこない高い場所だったので、そちらの皆も無事だったそうです。会社で人的被害がなかったことは本当に奇跡でした。しかし残念ながら事務所と川沿いの現場の重機や車両を含めた一切が、津波でダメになったようです。
夫の実家には畑もお米もあります。水は山の水の蛇口なら使えるし、灯油で灯油ストーブ、プロパンガスでガスコンロとガス釜、トイレは外の汲み取り式があり、無いのは電気だけでとりあえず衣食住は何とかなりそうです。やはり昔ながらの農家の暮らしは災害に強いなと思いました。そして何よりも津波とは無縁にも思える山の中はいつも通り平穏で、余震の度に「また津波が来るの?」と怯える子供達を「ここなら大丈夫だよ」と安心させてあげることができました。