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東日本大震災回顧録⑦

 しばらくすると、中央公民館の隣にあるグラウンドの被災物をよけて、ガレキの板で渡り廊下をつくり、自衛隊のヘリコプターが着陸できる態勢が整えられたようです(後に男性方が協力して作ってくれたのだと聞きました)。建物の中に長い長い行列ができ、一景島保育所では小さな子のクラスから順に、その後ろに地域住民などの大人が並びました。少しづつ列は進み、3階から階段を下りると、2階の半分以上まで津波が来た跡が残っていました(ここも危なかったんだな・・・)。そして廊下を通り、停電で真っ暗な大ホールの中に入りました。広いホール内の客席の間の階段を下りて行ったでしょうか。ホールの床はヘドロだらけで、片隅には掛け時計が落ちており、時刻は3:35を指していました。これが津波が来た時刻なのでしょうか。

 

 とうとう9:30頃でしょうか、私達年長組の順番が来ました。スライド式のドアがついた迷彩柄の大きな自衛隊のヘリコプターの中は、イスも何もなくガランとしていて、20人程が乗れそうです。私は窓のへりに指先をかけてしゃがみ、子供を股の間に立たせました。私が「お母さん高い所怖いな」と言うと「大丈夫!僕が守るから!」と子どもが答えます。そしてヘリはふわっと浮き上がると、1~2分であっという間に気仙沼小学校のグラウンドに着きました。この時に気仙沼の惨状を目にして、本当に甚大な災害が起こったんだと恐ろしく感じました。

 

 ヘリコプターから降りると、TBSマークのテレビカメラが待ち構えていました。先生がインタビューを受ける側から、私はとっさに「一景島保育所のみんな、無事ですから」と伝えました。このニュースがテレビで繰り返し流れた為、遠方の実家が私と下の子の無事を知ることとなりました。避難場所だけ伝えて携帯電話のバッテリーが切れ、気仙沼の火災を知り狼狽していた、皆で泣いて安堵した、と後に聞きました。

 

 【写真 先生は上着もなく、手もマスクも真っ黒になっています。】そして気仙沼中学校の体育館に誘導され、バケツの水で手洗いし中に入ると、中は避難してきた沢山の人でごった返していました。私達はパイプ椅子に座りながらはやる気持ちでお水を待ち、やっとお水をいただくと、皆で安堵し涙ぐみながら生還を喜び合いました。

 

 さあ、早く夫や上の子に会わなければ!皆心配しているはずです。(夫の実家まで10数キロあるよな・・・歩くしかないかな・・・)と考えていると、親戚のおじさんにバッタリ会いました。一緒に中央公民館に避難していた奥さんの無事を伝えると、「妻の救助はきっと最後だろうから」と、私達を夫の実家まで送っていただけることになりました。先生に事情と行き先を告げ、残った乾パンを渡します。2缶いただいて、2人で食べたのはひと缶の内の半分だけでした。空腹でも水が無ければ、喉が渇くので食べられなかったのです。壁には伝言の紙が沢山貼られていました。私も念のため書いて貼ります。自宅を流された方は、気仙沼中学校の校舎へ誘導されていました。

 

 おじさんの車に乗ると、お菓子やパンが入った段ボールが目に入りました。食料を集めて積んできたのでしょう。下の子がとっさに手に取ったので私がたしなめると、おじさんは笑って「食べていいよ!お腹空いてるもんねぇ」と言って下さいました。貴重な食糧なのに・・・と申し訳なく思いつつも遠慮なくお菓子を1袋いただきました。子供は夢中で食べますが無理もありません。もう5食も抜いていたのです。

  

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