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東日本大震災回顧録④

《2日目》2011.3.12

 朝になりました。このタイミングか記憶が定かではありませんが、段ボールの切れはしが回ってきて、皆で順に連絡先を記入しました。足りないので片隅にあった段ボールの蓋もちぎって使います。看護師のお母さんは、メモを片手に服薬中のお薬がある方の聞き取りをして回っていました。

 

  明るくなり2階屋上に人が出た分、建物内に余裕ができました。

 

 建物内を歩き確認すると、和室・調理実習室・倉庫部屋・廊下・2階に降りる階段という間取りでした。ラジオの声が聞こえ近づくと、やはり宮城県のみならず東北の太平洋沿岸が絶望的に壊滅していることが想像できました。死者の数も数百人規模で延々と伝えられています。(日本全国から救助隊が駆けつけてくれたとしても、ここの救助は一体いつになるのだろう・・・)。

 

 そしてどれくらい待ったでしょうか、ヘリコプターの音が聞こえてきました。どうやら消防の赤いヘリコプターのようです。何度か行き来した後、とうとう救助が始まりました。

 

【写真 14:54外に出てみると、未だに煙が残っていました。(子供をおぶっての脱出は危険だな・・・)みると、あちこちの建物にも人が取り残されています。ホテル一景閣・合同庁舎・・・。そして上の子が通う南気仙沼小学校も見えます。上の子は無事だろうか・・・。】

 

 一人ひとり吊り下げての救助は時間がかかり、たまにヘリコプターが来ると強風で皆が屋内に入ってくるので、また混雑します。ヘリコプターが来るたび廊下に親子で整列するよう指示が出るので、満員電車の中を進むように和室から廊下を一日に何度も行き来しました。しかし、持病をお持ちの方や妊婦を優先しているようで、この日の救助は50人程だったようです。「来るときに水持ってきてくれればいいのに・・・」と誰かが言います。私も同じように思っていました。空腹には耐えられても、のどの渇きは苦痛で耐えられなくなっていました。そして夕方になり今日の救助は終了だと聞き、皆から失意のため息が漏れました。 

【写真 2011.3.12 9:59 南気仙沼駅より夫が撮影。近付くのはここが限界だったそうです。】

 

 その頃夫(社長)は水に浮いたがれきを這うように伝いながら、私達の救助のため中央公民館を目指していました。しかし、南気仙沼駅付近でこれ以上は近づけず断念しました。中央公民館を出たヘリコプターの飛ぶ先を見て五右衛門ヶ原運動場だと推測し、戻って向かったそうです。

 

 屋根に取り残された方々から「降りても大丈夫か?」「歩いて戻れるのか?」と聞かれたそうです。しかし、水に浮いた材木には大量の釘が刺さり、ひしゃげた金属など、がれきは大変危険です。夫は鉄板入りの安全長靴でした。

 

 自衛隊は地の利がないため、道もなくなり一面に広がるがれきと被災物を前に、どこからどう進めばよいか困惑しており、夫が地元の建設会社の者だとわかると夫達の後を付いてきたそうです。

【写真 2011.3.12 16:41 五右衛門ヶ原運動場より夫が撮影】

 

 部隊は、ここからヘリコプターで中央公民館へ救助に向かったそうです。消防庁のヘリでは一度に乗れる救助者は4名ほど。時には遠方の病院へ救助者を届けていました。数回に一度は給油するために仙台まで往復しなければならず、迅速な救助は難しかったようです。

 

 そこへもの凄い数の真っ赤な車列が続々到着すると、すぐにそれぞれが無駄なく素早く動き、あっという間に救助と救護の簡易施設の態勢がその場に造られたそうです。目を見張るほどのその迅速さに、日頃どれ程のシュミレーションと訓練を重ねてきたのだろうかと大変驚いたそうです。さすが東京消防庁です。

 

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