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東日本大震災回顧録③

 火事に加えて雪が降ってきましたが、誰かがカーテンを持ってきて、身を寄せている私達にかぶせてくれました(気を利かせた男性が3階の部屋から取って来てくれたんだと後に聞きました)。このカーテンには本当に助けられ、雪と煙から身を守り、子供達が火を見てしまうことも防いでくれました。「先生濡れちゃってるよ」「雨漏りしてる」「今日はみんなでここにお泊りだね」と平静を装い子供達と話ししばらく過ごしていましたが、外の様子が気になり私は一度カーテンから出てみることにしました。

 

 嘘でしょ・・・と思わず小さな声が出ました。想像以上の大規模火災。周囲は真っ赤で煙は臭く、熱気で雪はみぞれになり、皆びしょ濡れで震えながら立ちすくんでいます。知人のお母さんを見つけると、上着もなく薄着で震えています。聞くと車のエンジンをかけたままで、上着も財布も車と共に流されてしまったとのことでした。私は衣替えが遅く、未だに真冬用のダウンジャンバーを着ています。持ってきたタオルは、カーテンの中の乳児を抱えたお母さんにあげてしまい私は成す術もなく、「先生が(帰宅を)止めてくれて本当に良かったね」と伝えました。

 

 それから建物の隅に女性の行列を見つけ近づくと、ベニヤ板1枚を目隠しに排水口に用を足しているようで、私もその列に並びました。そしてこの時がここに2晩滞在した間の、唯一の用足しとなりました。

 

 その後もう津波は大丈夫そうだとなり、日が暮れる前に部屋へ入ることになりました。保育所のカラー帽で子供の口を覆いながら皆ではしごを下りて、3階和室に誘導され、ママ友から乾パン2缶を渡されました。保育所の備蓄品でしょうか。「2つもいいの?」「私もわからないの」確か乾パンはこの晩私は2個しか食べませんでした。水がないため食べると喉が渇いてしまい食べられないのです。下の子はもう少し食べたでしょうか。しかし1つ食べさせると必ず水を飲みたいと訴えるので、ねだられるままあげられません。昼間屋上にいた人達が皆屋内に入ったので、建物内はどこもぎゅうぎゅう詰めです。周囲と体が満員電車のごとく密着し、体育座りもきつく、隣のお母さんは「私の上に足を乗せていいよ」と言ってくれました。別のお母さんは壁がコンクリートなので背中が結露で濡れていますが、動くことも出来ずじっと耐えています。

  

  夜になり子供は抱っこされたまま眠りましたが、子供は眠ると重くなります。ついに腕がしびれて子供を畳に置くと、私のスペースがなくなり、仕方なく立っていることにしました。子供の上にまたがり窓を見つめます。擦りガラスの下半分が真っ赤で、その赤い部分が大きくなったり小さくなったりします。(この先どうなるんだろう・・・)不安で空腹も眠気も感じません。ただ30分ごとに立ったり座ったりを繰り返す長い夜が過ぎていきました。

 

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【写真 2011.3.11 18:03 事務所近くの神山川の土手から夫(社長)が撮影】