· 

東日本大震災回顧録①

 一昨日の晩の地震は、まさに震災の2日前に起こった前ぶれ地震と重なり、緊張が走りました。地震の震源地が海底だとしても、深さやマグニチュードの大きさで津波が来るか来ないか変わるようです。停電の場合はテレビが見られず情報収集が遅れるので、枕元にはスマホを充電し、懐中電灯を置いて備えています。災害はいつやってくるかわかりません。皆さんも留意してお過ごしくださいね。

 

 東日本大震災発生からもうすぐ10年が経ちます。年頭の投稿で掲げておりましたとおり、10年前・・・気仙沼のまちが一瞬で変わり果ててしまったあの日のことを思い返し、何度かに分けて当時の写真と共に振り返ってみようと思っています。

 

 実は書き始めてみると、話がまとまらなかったり心がざわついたりして、書き上げることに苦心しています。皆様もお読みになり強いストレスを感じたり、お辛い気持ちになる等の場合は、どうぞご配慮をお願いいたします。

《1日目》2011.3.11

  14:46に事務所にひとりいたところに地震が発生し、私は膝を床につき事務机から落ちそうなデスクトップパソコンを抱え込み激震に耐えながら、これが30年以内に高確率で発生すると警告されていた三陸沖地震だと直感し、(大変だ!大津波が来る!)と思いました。引き戸・引き出し・冷蔵庫のドアまでみんな開いて中身が飛び出しています。(パソコンはどうしよう・・・持っていく物は?そうだブレーカー・・・)気が焦ります。外に出て倉庫に行くとメチャクチャです。倒れた物をどけて自転車を奥から引きずり出し、小3の上の子が通う近所の南気仙沼小学校へ急行しました。

 

 グラウンドにいる先生方が避難してきた近隣住民を校舎の中へと誘導しています。(子供達も校舎の中にいるのかな?ここなら川沿いだけど上の子の命は助かるな。でも下の子は海の近くだ・・・上の子とここに居る?でももし、下の子だけ犠牲になったら・・・)と思い数分迷った後、(もし下の子だけが死んだら、どうせ私はきっと生きていけない。あっちで一緒に死んでもどうせ同じことだ。途中で流されないことだけを祈ろう。)と覚悟を決めて恐怖心を抑え込み、下の子が避難しているであろう気仙沼中央公民館へと向かいました。

 

 大川にかかる小さな学童橋はとても混雑しており、自転車をひいて歩きつつ橋の上ですれ違ったママ友に「私保育所向かうから!上の子に伝えて!」と早口でお願いし、橋を渡ると自転車に乗り川沿いの土手を下流に向かい猛ダッシュで走りました。川の水は引いてはいませんでしたが、シュミレーションでは30分位で津波が来ると聞いていたので心が焦ります。(今何時だろう。間に合うかな。急げ急げ急げ!)

 

 信号も停止し大渋滞となった菓子舗うつみさんの通りを、停車している車の間をすり抜けて踏切を渡り中央公民館に着きました。外階段のふもとに自転車を置き丁寧に鍵までかけてコンクリート造りの立派な外階段を上り2階屋上に出ました。避難してきた人たちでごった返す中を進んでいくと、一部3階建てになっている箇所の扉がありました。「一景島保育所の子供達はどこにいますか?」と聞きまわりながら更に人込みを進んでいくと、廊下で泣いている年長児の下の子を保育所のお友達が取り囲んで「大丈夫だよ!」と励ましてくれていました。みんなにお礼を言い子供を抱っこし「お母さん、ここに居てね」「はい、帰るつもりはありません」と担任の先生と言葉を交わしました。

 

 そして、保育所職員の指示で廊下から奥の調理実習室に移ると、15:19に夫と遠方に住む実母に避難先をメールしました。見ると数人の母親が来ておらず、先生が園児についています。その理由はお母さんの職業を思えばすぐに察しがつきました。美容師に市立病院の看護士に・・・すぐには駆け付けられない職業ばかりです。

 

 窓から広い海がよく見えます。頻繁な余震の度に窓も食器棚もガチャガチャと激しく揺れます。「近づかないで!離れて!」と先生から親子へ指示が出ます。不安がる子供を抱っこしてなだめていると、15:30頃に大津波が襲来し、保育園児71名や近隣住民を含む総勢446人は、逃げ場もなくこの建物へ取り残されました。

 

【写真 2011.4.6撮影 真ん中の黄色みがかかった建物が気仙沼中央公民館です】

 

戻る