昨晩の地震は久し振りに大きく、また就寝直前でしたので焦りました。
震央地は福島県沖、マグニチュード7.3、震源の深さ60km、気仙沼市の震度は5弱、津波注意報が1mとのことでした。
秋晴れの中、紅葉がきれいな秋の気仙沼です。さて、11/5は”津波防災の日”です。震災時、すぐに避難が難しい職業について考えさせられましたが、我々土木工事従事者もその職業のひとつだと思います。現場によっては道路を掘削していたり、通行止めにして作業していることもあります。この機会に、地震や津波が発生した場合の工事現場の対応を私なりに一考しました。
7月、8月と慌ただしく過ぎ、ブログ更新をなおざりにしていました。色々アップしたい出来事があったのに・・・タイミングを逃し少し残念です。これからも月2回の更新を目標に頑張ります♪
回顧録を投稿したのは、読んでいただいた方の防災意識を高め、私達の経験談から何かの学びを得ていただけたらとの思いからでした。家族と会社の皆が無事だったことは、奇跡とも思える数々の偶然が重なったことに加え、私の津波への危機意識が高かったことも幸いしました。10年の節目に際し、当時の3日間を振り返りながら、良い面悪い面を考察していきたいと思います。
夫の実家につくと、上の子(小3)と母がいました。母は泣いて喜んでくれましたが、上の子はそっけなく「おかえり」と言うだけで、普段どおりでした。父と夫と義弟は私達を探してくれているようです。家に上がると急に疲労感に襲われました。
しばらくすると、中央公民館のとなりにあるグランドの被災物をよけて、ガレキの板で渡り廊下をつくり、自衛隊のヘリコプターが着陸できる態勢が整えられたようです。建物の中に長い長い行列ができ、一景島保育所では小さな子のクラスから順に、その後地域住民などの大人が並びました。
【3日目】2011.3.13 2晩目の長い夜が明けました。今まで数回ペットボトルの水がきたので子供達を優先してあげていましたが、残った約400人がのどの渇きに耐えていました。子供達には「のどが渇いちゃうから、お口を閉じようね」と度々おしゃべりをたしなめていましたが、水を何度もせがまれます。
2晩目は調理実習室に誘導されました。床に災害備蓄品の毛布を敷いて、子供たちは頭と足が互い違いになるように密着して寝かせ、上からも毛布をかけます。私ともう一人のお母さんは調理台の上に丸くなりますが、とても寝られる体勢ではありません。
【2日目】2011.3.12朝になりました。このタイミングか記憶が定かではありませんが、段ボールの切れはしが回ってきて、皆で連絡先を記入しました。足りないので片隅にあった段ボールの蓋もちぎって使います。看護師のお母さんは、メモを片手に服薬中のお薬がある方の聞き取りをして回っていました。